赤木圭一郎さんの事故死




1961年2月14日12時20分頃、映画『激流に生きる男』セット撮影中の

昼休憩時にセールスマンが持ってきたゴーカートを日活撮影所内で運転中、

ブレーキとアクセル(乗用車とは逆位置)を踏み違え60km/h以上の

スピードで鉄扉に激突、慈恵医大病院に緊急入院。




一時は意識が戻ったものの、1週間後の2月21日、前頭骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のため21歳の若さでこの世を去った。




赤木の家族らと共に長門裕之、南田洋子夫妻も臨終に居合わせた。



事故直前に同じく『激流に生きる男』出演中で撮影所にいた子役時代の

江木俊夫は赤木からゴーカートに誘われていた。




「一緒に行くと危ないぞ、それより飯でも食おうよ」と誘ってきた小林旭と共に

食堂で食事をしているところに、外から大きな音と騒ぎが聞こえて

赤木の事故を知ったという。



志賀高原でのスキー事故により入院していた石原裕次郎は

赤木の事故死のショックで病状が悪化したという。



また、赤木の死に顔を見た宍戸錠は

「まるでハリウッドの俳優・ルドルフ・ヴァレンティノのようだった」

と語った。




宍戸は他の俳優やスタッフらと共に赤木がゴーカートを走らせる前より

その場に居合わせており、弟の郷〓冶、そして杉山俊夫共々家族同様に

親しい間柄だった。




(『近代映画臨時増刊 赤木圭一郎思い出のアルバム』154頁他より、

近代映画社 1966年12月刊)



赤木の事故死は当時の日本の各方面に大きな衝撃と悲嘆をもって


受け止められ、その早逝から「和製ジェームズ・ディーン」とも呼ばれた。




市川雷蔵夭折後の大映がそうであったように、赤木の夭折が日活衰退の

遠因になったと考察する者もいる。



プロマイドは死後6年経った1967年(昭和42年)まで男優部門での

売り上げ10位以内に入り続けるという高い人気を保ち、

同年には『トニーは生きている、激流に生きる男』のタイトルで

最後の映画が公開され、写真集やレコードが発売された。


同じ日活の後輩女優で共演の経験もある吉永小百合


(赤木からは「ラビットちゃん」という愛称で呼ばれていた)は、

赤木を「憧れの先輩だった」と語り、自身の著書や写真集、

日活時代の思い出を語るインタビューなどで赤木とのエピソードや

写真を挙げている。



神奈川県鎌倉市に建てられた赤木の墓所へは死後45年以上たった今でも


墓参に訪れる者が多く、献花が絶えることはないという。





引用:ウィキペディア


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