赤木圭一郎さんの映画界入り

1958年、日活第4期ニューフェイスとして日活へ入社。

石原裕次郎主演の『紅の翼』に本名の「赤塚親弘」名義で群衆の一人として

エキストラ出演し、これが映画デビュー作となった。


その西洋的風貌や退廃的な雰囲気がこれまでの日本人俳優にはない個性

として評判を呼び、「トニー」の愛称(1950年代当時人気のハリウッドスター・トニー・カーチスにどことなく風貌が似ていたことが由来)で

主人公の弟分や準主役級として出演するようになった。


鈴木清順監督の『素っ裸の年令』(1959年)で初主演。


その後『拳銃無頼帖』シリーズなど20本以上の無国籍アクション映画に主演し、日活のアクション俳優として、"マイトガイ"小林旭、"タフガイ"石原裕次郎に続く

「第三の男」と呼ばれた。


『霧笛が俺を呼んでいる』(1960年)では少年時代からの憧れだったという

船乗りを演じ、「マドロス姿が最もさまになる日活俳優」と評価された。


より多忙になる中でステレオやスポーツカー、オートバイなどに趣味を広げ、

カーマニアとしても知られるようになった。


映画を観ることも好きで、アンジェイ・ワイダ監督のポーランド映画

『灰とダイヤモンド』を何度も観ており、暗く影のある主人公マチェックに

非常に共感していたという。


逆に自身の俳優業には違和感を覚えていたようで、ゲスト出演したラジオ番組では「映画は好きだけどやるのは好きじゃないです」と語っていた

(『驚きももの木20世紀』より)。


歌手としても、日本グラモフォン(ポリドール)から『霧笛が俺を呼んでいる』

をはじめとする数々のヒット曲をリリースしている。

プライベートではジーンズなどのラフな服装が多く、日活の俳優仲間以外では

丸山明宏や同じ湘南出身の加山雄三と交流があったものの、

大勢でいるよりは己の時間を大切にする繊細で真面目な性格だった

と言われる。


同時に、威張らず気さくな性格からファンのみならず俳優・スタッフなど

業界内の人望も篤かった。


演技力の評価は必ずしも高くなかったが、他者には代えがたい

「華」「存在感」を持っているとの声が高く、将来を嘱望された大スターだった。

 

引用:ウィキペディア

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